2020年04月06日

お寺をお護りする一人の仏教徒として、このような時だからこそ...

新型コロナウイルス感染症のために、ここ、山梨県だけではなく、日本全体、世界全体が大きな試練に立たされています。

このウイルス感染症による直接的な犠牲者の数も、昨年12月末中国で最初の感染者が確認されて以後今日まで、世界全体191カ国で感染者が124万4740人。死者は6万8125人(AFP集計;日本時間4月6日午前4時現在)。日本国内でも、感染者が4568人、死者が104人にのぼっています(4月6日午前10時現在)。

この新型ウイルスに対しては、今の時点では有効な治療法が確立されておらず、感染の爆発的な拡がりを抑えることが出来ていません。

 

このような時に、どう行動するべきか...

これについては、マスコミを通じて、あるいはインターネット上において具体的な情報が沢山流れており、その気になって調べるならば、かなりのことを知ることが出来ますので、ここでは触れません。

 

恵林寺は臨済宗妙心寺派に属する仏教寺院です。

ここでは、お寺の眼から見、感じたことをお伝えしたいと思います。

 

このようなとき、お寺が皆さんにお伝えしたいことは、何よりも先ず「自分のこころを守る」ということです。

 

今回のような問題が生じると、これと連動して対策や責任など、社会にはさまざまな波紋が生まれます。

こうしたことは専門家のアドヴァイスを聞きながら、一つ一つ知恵を出し合って進むほかはないのですが、忘れてはならないのは、対応し、解決することに目を奪われて、一番大切な「こころ」がおろそかになってはいけない、ということです。

こころがおろそかになる....不安や焦りの中で、わたしたちは誰もが知らず知らずのうちに、1番大事な自分のこころを置き忘れてしまいがちになるのです。

 

何時終わるかとも知れない、目に見えないウイルスに対する不安だけではなく、この感染症による社会の混乱によって生じるであろう経済的な危機...わたしたちの誰もが、生命と生活の危機に根本から曝されていて、将来に希望を見出すことが出来ていません。

このようなときには、誰もが不安に駆られ、絶望に走りやすくなります。

イライラし、激しい言葉をぶつけ、やけを起こして行動する...

こうした状態に落ち込んでしまうと、ますます状況は悪くなります。

 

不安や絶望、怒りや憎しみにこころを明け渡してしまうと、その先には破壊と争いが、不幸と悲劇が待っています。だからわたしたちは、どれほど不安に苛まれようと、焦りの中でジリジリと追い詰められようと、絶対に不安や絶望、怒りや憎しみに自分のこころを明け渡してしまってはいけないのです。

激しい感情に身を委ねてしまうとき、その人は自分自身の思いをぶちまける快感に浸っているのですが、それは、実は一時の感情の突発にこころを乗っ取られてしまっているだけなのです。

我を忘れる、という言葉がありますが、大切な自分自身のこころを置き忘れてしまっては、必ずそのつけが回ってきます。そして、時にそれは取り返しが付かないことになるのです。

仏教が坐禅による瞑想を大切にするのは、一つにはよく落ち着いて自分の心を見つめ、激しい感情にこころを奪われて自分自身を見失うことがないようにするためなのです。

 

そしてもうひとつは、「思いやりのこころを持つ」ということです。

 

わたしたち人間は儚く脆い存在です。

明日どころか、一瞬先のことすらわかりません。今回のような出来事は、わたしたちの存在の脆さ儚さを、改めて思い起こさせます。

わたしたちの脆さ、儚さ、つまりわたしたちの生命の限界に向き合うとき、一番大切なものは、「共に生きるいのち」です。

一人一人、一つ一つのいのちは儚く脆いけれど、互いに助け合い、思いやりをもって手を取り合えば、どれほど無力であっても、不安や絶望、怒りや憎しみに立ち向かうことが出来ます。

不安や絶望、怒りや憎しみを感じたら、自分の1番大事な人のことを思い起こしてください。

その人が生きている人ならば、その大事な人のために自分は何が出来るか、考えてみてください。その人を苦しめ、悲しませないように、どう振る舞うべきか、考えてみてください。

凄いこと、素晴らしいことなどしなくても良いのです。

何もできなくとも、優しい言葉をかけ、優しい思いを抱く、それだけでも良いのです。

相手がその場にいなくても、感謝の思いを抱き、こころの中で思いをこめて「ありがとう」と言う。できれば、その大切な人が心安らかに、幸せでありますように祈る。それだけでも良いのです。

もしもその人が既にこの世を去っているのならば、その人に喜んでもらうには自分がどう振る舞えば良いのか考えてみてください。そして、その人にしてもらったことを感謝し、安らかにありますように、と祈ってください。

祈りは、向けられた相手の心を癒やし、温かく平安にするだけではなく、祈っているその人の心も和らげ、明るく照らします。相手の平安を祈ることは、自分のこころを明るく照らすことなのです。

自分のこころが暗く沈みがちのときには、大切な人の平安を祈ってみてください。こころから祈ることができるとき、自分のこころが明るく照らされていることに気がつくことでしょう。祈りには力があります。

 

仏教には沢山の宗派があり、教えもまちまちです。しかし、仏教の教えを一言で言えばそれは「利他」の教えに行き着きます。

「利他」とは自分の利益を求める「自利」の対になる言葉です。

見返りを求めず、相手のために出来るだけのことをする、これを「利他の行」と言います。

最初は、自分にとって大事な人のために、出来るだけのことをする。

そして、自分と縁がある人、縁があった人、そうした人たちのために、出来るだけのことをする。

そしてさらに、自分とは直接の関わりはないけれど、自分と同じようにこの世に生を受けたありとしあるもの、すべてのいのちに、出来るだけのことをする。

生命とは儚く脆いものだから、儚く脆いものどうし、相手の苦しみ、相手の悲しみ、相手の喜び、相手の怒りに思いを向けて、自分に出来ることはないかと考える。自分には何もできず、結果を変えることが出来なくとも、思いやりの心を持って接する。

自分が生命を繋いでいることが出来るのも、毎日何の気なしに食物として食べ、自分がそれと知らずに生命を奪う沢山のいのちのおかげです。こうしたいのちに対して、感謝のこころを抱く。そして無益な殺生をしない。これも思いやりの一つの形です。こうした思いやりの心を、仏教では「慈悲」と言います。

祈りが、向けられた相手の心を癒やし、温かく平安にするだけではなく、祈る自分自身の心をも明るく照らすように、「利他」の行いは相手の心を喜ばせ、平安にするだけではなく、これを行う自分自身の心も喜びで照らし、安らかなこころを取り戻させてくれます。なぜならば、「利他」の行はわたしたち一人一人を、その行を通じて多くのいのちと結んでくれるからです。

「共に生きるいのち」と一緒に生きるとき、わたしたちは不安や焦り、絶望や怒りにとらわれず生きていく道を見付けることができるはずです。仏教の修行の道は一人ではないのです。

共に生き、人生という修行の道を一緒に歩む仲間のことを「道友」と言います。道友は、人生の最高の宝物です。

 

最後に、辛く苦しいときだからこそ、思いやりをもって毎日を過ごしましょう。

外出するときに、

それが不要不急か...
ではなく、先ず真っ先に、自分が万が一ウイルスの感染を持ち込んでしまったら、身近にいて苦しみ、悲しみ、困窮するかもしれない大切な人の顔を思い起こして欲しいのです。今流行しようとしているウイルスは、大勢の人の生命を奪う危険をもった恐ろしいものです。あなたの大切な人が、生命の危機に曝されるかも知れません。だから、そのようなことがないように考えて行動して欲しいのです。

規則、決まり、命令ではなく、身近な大切な人たちのことを思って、まず初めに「思いやりの心」を思い起こして欲しいのです。

そして、誰もがこころの沈みがちになるときだからこそ、優しく思いやりのある顔で、互いに接して欲しいのです。笑顔には力があります。マスクをしていて互いに声が掛けにくい状態でも、笑顔で接するときには言葉は要りません。

人間の世界においては、笑顔一つで大きく変わるものもあるのです。時には、ゆっくりであっても社会を変えてしまうことすらあり得るのです。なぜならば、人間はこころを持っているから、笑顔に答えて相手のこころも変わるからです。共感し、こころが繋がれば、一人一人は無力でも、それが集まって大きな力になります。都市の封鎖や外出禁止がなくとも、思いやりの心が繋がれば、感染の爆発的な拡大は食い止められるはずです。

 

最後に、私の一番好きな道元禅師の言葉をご紹介します。

 

   愛語よく廻天(カイテン)のちからあることを学すべきなり...(『正法眼蔵』「菩提薩埵四摂法」)

 

 

 

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