恵林寺四脚門(通称・赤門)
長きにわたった戦国乱世が終息に向かうなかで生まれてきた桃山文化。 その特徴ともいえる、人間中心で、ほとばしる豪壮さを反映しているのがこの「赤門」であり、恵林寺の山号である「乾徳山」の額を門の上に堂々と掲げている。 時運えることなく武田家が滅亡するなか、織田信長の甲州征伐(1582年)の前に立ちはだかり、一度焼失している。その後、徳川家康によって見事に再建(1606年)されたのであるが、再建時の姿を今日に伝える唯一の遺構である。その構造はシンプルであり、ひときわ目を惹く赤が、その意匠を気高く浮かび上がらせている。
恵林寺三門 附棟札一枚
「心頭滅却すれば火も自(ひおのずから)涼し」というフレーズは、現代でもなお生きている。 この由来は実のところ、多く命と引き換えにして、この「三門」の場所から有名になった。 武田家が滅亡しても恭順しなかった恵林寺は、織田勢によって火攻めにあった。この「三門」の場所に立て籠もった快川国師は、今際の際(いまわのきわ)に冒頭の一句を大喝一声して多くの僧侶たちの動揺を鎮めて、端座しつつ皆で運命に身をゆだねたといわれている。 ここを「三門」と称するのは、涅槃に入るための三解脱門(さんげだつもん)すなわち空門(くうもん)・無相門(むそうもん)・無願門(むがんもん)の意を託して表しているからである。 構造は、一間一戸、楼門形式であり、小規模ながら総体的に溢れる重厚・荘厳さは、桃山文化の建築物の面影を示し、あまた存在する禅宗寺院の山門の中でも逸品とされている。
木造 夢窓国師坐像 一軀
鎌倉時代も終焉に近い元徳2年(1330)9月、恵林寺を開いた夢窓国師の木彫寄木造り坐像である。像高72センチ、胴部は木造であるが、頭部のみは塑像、玉眼入りという非常に珍しいもので、全体が布着せ胡粉地に彩色を施している。
武田信玄公の墓所
孫子の兵法にある「風林火山」を旗印に掲げ、まさしく文字通り戦国時代を駆け抜けた武田晴信(信玄)は、いまでもこの地では不動の存在となっている。1521年、信虎の長男として生まれ、幼少より禅と兵法で自らを鍛えあげて、21歳で甲斐の国主となる。家臣団をよくいたわり組織し、領民をよく愛し、天下へ号令をかけるべく戦いを続けるも、その途上53歳で没した。 生前、信玄みずからの意思で恵林寺を菩提寺と定め、遺言通り三年間その死を秘して後、嫡男の勝頼が施主となって、快川国師のもとで荘厳な本葬儀がおこなわれた。現在の墓所は信玄霊廟「明王殿」裏手に位置しており、聖域として祀られている。
*通常非公開(毎月12日のみ特別公開)
柳沢吉保夫妻の墓所
江戸幕府の5代将軍徳川綱吉の側用人をつとめた柳沢吉保は、その政治家としての力量により歴史に名を残している。吉保は天下泰平の世において異例の出世しており、甲府15万石の藩主として大老並のあつかいを受け、政務のためにこの地を訪れることはかなわなかったにもかかわらず、優れた家臣を派遣し、甲斐国主としても大きな業績を残している。 政治家として有能であった一方、病弱であった正妻の定子をいたわり続けた家族思いの人柄なども、のこされている史料からうかがい知ることができる。柳沢家の大和郡山転封の後、いまはこの地にて吉保・定子夫妻は静かに眠っている。
武田不動尊・二童子像 (木造・三躯/室町時代)
右手に剣、左手に羂索(けんさく)を握り、忿怒(ふんぬ)の形相の不動明王。表情の厳しさが目をひくが、その心は煩悩に強く惑われている者たちを、正しい力でもって導き救済する慈悲に溢れているといわれる。 この武田不動尊、生前、信玄が京から仏師を招き、自らと対面させてその姿を摸刻させたという等身大の坐像である。伝承によると、信玄は剃髪した毛髪を漆に混ぜ、自ら坐像の胸部に刷毛で塗りこめたといわれている。
補足資料 武田不動尊
武田信玄の菩提寺である恵林寺明王殿には武田不動尊と称される不動明王坐像及び二童子像が安置されている。『甲陽軍鑑』『甲斐国志』巻七五に拠れば武田不動尊像は信玄が京から仏師康清を招聘し、信玄と対面して彫刻させ、信玄自らの頭髪を焼いて彩色させたものであるという。像内は内刳りされ、像底には布張り漆塗の底板があることから、未確認ながら、像内の空洞に像内納入品を納めている可能性も考えられている。 中尊の不動明王坐像は像高92.9センチメートル。胸前の条帛には金泥で武田家家紋である花菱文が描かれている。『軍鑑』『国志』では信玄の姿を写した像であるとする伝承が記されているが、武田不動尊は左手に索、右手に剣を持つ儀軌どおりの造形で、相貌も伝統的な不動明王像の表現であることが指摘されている。 仏師康清は本像以外に県内でいくつかの作品を残しており、大井俣窪八幡神社(山梨市)の旧蔵であると考えられている清水寺(山梨市)の勝軍地蔵像や、円光院(甲府市)の勝軍地蔵像・刀八毘沙門天像などが知られている。恵林寺庭園
有名な禅語に「別に工夫無し」(別無工夫)、という語があるが、これは歴史の教科書にも必ず出てくる夢窓国師こと夢窓疎石(むそう そせき1257~1351年)がその著『夢中問答』のなかに残した言葉である。その意は、あらゆることを一生懸命につとめれば、おのずから工夫などを意識せずとも道はなるとする。生涯に七たび歴代天皇から国師号を賜与され、七朝の帝師とも称された夢窓国師は、恵林寺を開山し、自らの指揮でその庭園をつくられた。今日、恵林寺の庭園は、京都嵯峨の天龍寺、嵐山の西芳寺(苔寺)庭園とともに、国師による築庭の代表作として有名である。 大自然そのままの姿を庭園に再現し、そこに森羅万象の姿を見ようとすることを禅観一味という。すなわち「無為自然」という境地を、国師は築庭によって表現したといわれる。静けさの中にも確実に動きを感じさせるその姿は、現代においてもなお、禅の風をおこし、そこに立ちみる者を深くいざなう。