2021年01月20日

恵林寺焼き討ち事件...史料から見る(1)『阿波國各宗寺院及阿波出身僧侶列傳』:『瑞巌寺一鶚』

天正10年、織田信長による甲州征伐により、勝頼公は自刃、武田家は滅亡します。その後、武田家の菩提寺にして信玄公の廟所であった恵林寺は、織田方の軍勢に取り囲まれて焼き払われてしまいますが、酷いことに、そのおりには戦乱を避けて寺に身を寄せていた老若男女合わせて百人ほどの人々が、山門の上に押し込められ、火をかけられて生命を落としたとされています。
この時、山門の上で、住職であった快川国師(快川紹喜:大通智勝国師)が「心頭を滅却すれば、火も自ずから涼し」と唱えられた、と言われています。

さて、この度、武田信玄公生誕五〇〇年・四五〇回忌の記念の年にあわせて、少しずつ歴史的な資料を掘り起こしていこうと考えました。
先ずは、信玄公没後のことではありますが、信長による甲州征伐と恵林寺について、遺された資料を見ていくことにしましょう。

信長による恵林寺焼き討ちについては、幾つか代表的な資料が存在しますが、第1回目のこのノートでは、一般的に余り読まれていない資料『阿波國各宗寺院及阿波出身僧侶列傳』(神河庚藏著:『阿波國最近文明資料』臨川書店刊)からご紹介します。
これは、信長による焼き討ちの時に、快川国師たちと共に燃えさかる山門の上にいて、国師の命により山門から飛び降りて生きのびた弟子の一人、一鶚宗純禅師の伝記です。原文は漢文、返り点が付けられていますので、それを参考に読み下し文と現代語訳を作りました。テキストに付けられている返り点にはしたがっていない箇所もあり、あくまで私個人の試訳とお考えください。

**********

  瑞巌寺 一鶚いちがく

 

①読み下し文

師は播州立野の人、瀧筑後の弟也。早く快川國師を甲之慧林に禮拝し、祝髪して勤に服すること之れ久し。川、其の法器なることをよみし、襟を傾けて煆煉かれんす。遂に機縁に契合し、川、僧伽梨そうぎゃりを付し、以って卯信うしんす。
天正十年三月、織田信長甲州を攻め、武田勝頼は之と戰い敗績し、天目山に遁る。信長進んで之をかこみ、勝頼父子之が爲に自裁す。州城を尋ね陥すと府内の禪衲は亂を慧林に避く。武田氏𦾔臣佐々木次郎等、亦竊ひそかに逃れて寺に在り。信長之を捕えんと欲するも、衆僧深く匿って出さず。信長大いに怒る。四月三日叉寺を圍み、僧徒を驅迫くはくして山門にい上げ、薪を積んで四面に放火す。創刀そうとう蘆立ろりつし、一人として能く免れる者無し。
時に諸刹の老宿及び學徒一百餘人、皆威儀を具して位に依って坐す。國師を中央に設けて乃ち左右を顧視して曰く、諸人卽今火焔裏に坐して、如何が法輪を轉ず、請う各一轉語を著して、以て末期の句と爲せ。
師聲に應じて曰く、劫火洞然として天地明なり。衆皆下語す。
是に於いて川、師に付與ふよするに観音靈像菅神影を以ってし、且つ謂って曰く、汝速かに下って難を避け、はかって悟後の大事を決せ、必ず餘師よしに當ること有り。
師去ることをうけがわずして曰く、和尚此こに在り、弟子何の處にか行かん。川色を正して聲をはげまして曰く、汝聞かずや、死すことは易く生くることは難し、倶に死すれば則ち法も亦随って滅す、何が故に躊躇せん乎、言いおわって楞嚴行導りょうごんぎょうどうを修す。師已すでに第五段に至ることを得ずして鎗刅そうとうの上に身を翻し、飛び下りて一足を毀折きせつし、匍匐ほふくして敵陣の中に入る。峙立じりつして之を視、豊後月桂寺の湖南嶽さきがけと爲って、遁れる者僅かに十八人のみ。
既に國師及び衆僧皆燒滅す。師天を仰いで慟哭氣絶し、漸く蘇息することを得。軍散じて後、湖南諸人と共に煨餘わいよの空房に在り、國師の爲に靈位を設け、奠祭てんさいして以って慈蔭に酬い、暫く醫療を加えて各自分散す。此の時師兄すひん南化興公、妙興みょうこうに住す。師、直に往きて随侍し、三載さんさい脇席に着かず、坐爛ざらん参究し、一且根塵頓に盡き、直に方丈に入って其の所悟を通ず。南化愕然とす。然して諸の機緣を以て之を徴詰ちょうきつせるも、師應じて答えること響くが如し。化曰く、汝機鋒きほう輕鋭けいえいにして衆鳥の一鶚也、先師既に歿すと雖も猶を生也、汝が緣は南海に在り、今自り宜しく護持長養せよ...(八五三頁)

瀧筑後:阿波蜂須賀家滝筑後守。
祝髪:髪を落とす、剃髪。
煆煉:焼きを入れて鍛える。  
僧伽梨:袈裟、僧侶の正装でここでは悟りを証明する伝法の袈裟。
餘師:他の師匠。
楞嚴行導:楞勤呪を唱えながら練り歩く行法。
湖南嶽:大分臼杵月桂寺開山湖南宗嶽(三舟圓観禅師)。  
煨餘:焼け残り。
奠祭:お祀り。  
慈蔭:師の恩。
師兄:兄弟子。  
南化興公:妙心寺塔頭大通院・隣華院開山南化玄興(定慧円明国師)
一且:一日の誤りか。 根塵:感覚器に備わる深い煩悩の種。
徴詰:厳しく問い詰める。  機鋒:禅僧としての働き。
衆鳥の一鶚:出典は、「鷙鳥しちょう百をかさねるも一鶚いちがくかず(鷙鳥累百、不如一鶚)」(『後漢書』:『禰衡伝』・『三国志』:『呂蒙伝』)「鷙鳥」は燕の意。「顎」は大鳥、みさご。鷙鳥が百羽集まろうとも一羽の顎には及ばない、の意味。 

②現代語訳

師(宗純)は播州龍野の人で、瀧筑後の弟である。若くして甲斐の恵林寺で、快川国師を師として礼拝し、髪を落として修行に励むこと長年月にわたった。快川国師は宗純が優れた仏法の器であることを喜び、心を込めて鍛え上げた。その結果とうとう悟りに出会い、快川国師は伝法の袈裟を伝えてその印とした。
天正十年三月、織田信長が甲州を攻め、武田勝頼は戦うも大敗を喫した。信長は軍を進めて勝頼を取り囲み、勝頼父子はそのために自ら生命を絶った。甲州の城が攻め落とされると城下の禅僧たちは恵林寺に乱を避けた。武田氏の旧臣佐々木次郎等は潜に逃れて寺に居た。信長は捕えようとしたが、恵林寺の僧侶たちは深く匿って差し出さなかった。信長は大いに怒り、四月三日に寺を取り囲み、僧たちを駆り立てて山門に追い上げ、周囲に薪を積んで放火した。鎗や刀が葦のように乱立し、一人として逃れることができなかった。
その時、各地から逃れてきた和尚や修行者たちおよそ百人は、皆着衣を整え序列にしたがって坐を組んだ。国師は坐る場所を中央に設け、左右を顧みて言われた、皆よ、今こうして燃えさかる火の中に坐して、どのように仏法を働かすか、さあ、各々一句を唱えて末期の句とせよ。
宗純は国師の声に応じて言われた、全宇宙を焼き尽くす焔が大きく燃え上がり、天地を明らかに照らす、と。居合わせた者たちが皆、自分の語を呈した。
ここで快川国師は宗純に観音像と菅公の神像を形見として渡し、こう諭して言われた、お前はすぐにここから降りて難を避け、悟りの後の大事を兄弟子に相談して決めよ、必ず他の師に出会うことがあろう、と。
宗純は立ち去ることを受け入れず言われた、師である和尚がここにおられるのに、弟子に行くところなどありましょうか、と。快川国師は居住まいを正し、声を励まして言われた、お前は聞いたことはないのか、死ぬことは易く生きることは難し、と。お前がここで共に死ぬならば仏法もまた滅するのだ、どうして躊躇することがあろう、そう言い終わると楞嚴呪を唱えながら歩き始めた。
宗純は楞嚴呪が第五段に差し掛かるのを待たずに槍衾やりぶすまの上に身を翻して飛び下り、片足を折挫いてしまったので、這って敵陣の中に入った。傍らに立ってこの様子を見ていた豊後月桂寺の湖南宗嶽が先鞭を付けて山門から飛び降りて、遁れた者は僅かに十八人のみであった。
こうして快川国師と僧侶たちは残らず焼け死んでしまった。宗純は天を仰いで咽び泣き、悲しみの余り気絶し、漸く息を吹き返した。
兵が散らばり去って後、湖南は生き残りの者たちと共に焼け残りの建物に身を寄せ、国師のために位牌を設け、法要を行って師の法恩に酬い、暫くのあいだ治療を受けてから各々の地に散らばり去って行った。
この頃、兄弟子の南化玄興師は尾張の妙興寺の住持を務めていた。宗純はその足で真っ直ぐ向かって南化師の許にとどまって師事し、三年の間横にならず、尻が爛れるような坐禅修行に励み、とうとう雑念の根が一息に尽き果てた。そのまま本堂の師のもとに赴いて自分の悟ったところを伝えた。師である南化は愕然として驚き、様々な禅門の悟りの機縁を用いて厳しく問い詰めるも、宗純は打てば響くように答えることができた。
師である南化は言われた、お前の悟りの働きは俊敏で鋭く、群鳥を凌ぐ一羽のみさご、一鶚だ。先師快川国師はもう亡くなられたと思ったが、ここにこうして生きておられるぞ。お前の縁は南海にあるようだ、これからもしっかりと自分のお悟りを護って長く境地を養え...


とても生々しい記述です。恐らくは、この時の様子を最も精確に伝える資料の一つであろうと思われます。

印象深いのは、この記録の主人公、一鶚宗純師が山門を逃れてのち、更に兄弟子の南化玄興の許で悟後の修行に励む所です。
既に快川国師の許でお悟りを開いて印可証明も得ていたのですが、国師からの、他の師に就いて更に修行を重ねよ、という指示にしたがい、引き続いて兄弟子の許で血の滲むような行を積んでいます。修行というものの凄まじさがひしひしと伝わってきます。
一鶚禅師はこの後、南化玄興禅師の指示に従って阿波国(徳島)に渡り、蜂須賀家政公に仕え、鳳翔山瑞巌寺の開山となっています。
一方、この記録の中で一鶚禅師と共に山門から逃れた者として名前が出ている湖南宗嶽禅師も、同じく南化玄興禅師のところに身を寄せ(但し、お寺は美濃の崇福寺とされています)、南化禅師に嗣法。豊後の稲葉典通に仕えて臼杵月桂寺開山となっています。