2021年01月27日
明治期における恵林寺...『無孔笛』(笛川日記)を読む(2)
今回は『無孔笛』の最初のページからです。恵林寺の拝請を受けて入山し、華やかな祝いの様子から、一転、荒廃した伽藍に立ち向かう姿が描かれています。
途中、垂語など専門的で細かいもの、隣華院の様子などは割愛しました。
惟時明治拾壱戊寅春三月、衲ハ西京花園正法山妙心寺裏金毛窟本光老漢之棒下ニ在リテ惠林之請ヲ受ク。
無孔篴菴主曰ク、當時、本山第二世授翁宗弼圓鑑國師五百遠年忌豫修中ニテ、本光輪下ニ輻輳スルモノ二千餘指、予時ニ紀綱寮ニ在テ接欵ノ際、會々此ノ報ニ接ス。固辞シテ應ゼズ。老漢諭スニ古人往古令法久住ノ意ヲ以テス、遂ニ意ヲ決シテ命ニ應ズル云尓
(注)
金毛窟:
妙心寺山内天授院に置かれた天授僧堂(妙心僧堂)。
本光老漢:
本光軒越渓守謙(1810-1884)。江戸後期-明治時代の臨済僧。若狭出身。相国寺から妙心寺の天授院に移り専門道場を開く。明治16年兵庫に楊岐寺を開き儀山善来を招いて開山とし、嗣法。妙心寺住持。
棒下:
喝雷棒雨といわれる禅門の厳しい指導。
無孔篴菴主:
笛川元魯(1846-1920)。大梅室、無孔笛と号す。
備中の人。岡山曹源寺の大丘善行に就いて出家得度。
相国僧堂の越渓守謙に参じ、越渓の妙心僧堂開単にしたがい随侍すること前後18年にして嗣法。
甲州恵林寺に住す。妙心寺派管長。
授翁宗弼:
鎌倉後期から南北朝時代にかけての臨済僧(1296-1380)。諡号は円鑑国師・微妙大師。父は藤原宣房、万里小路藤房と同一人物とする説もある。後醍醐天皇に仕えながら大徳寺の宗峰妙超(大燈国師)に参禅。建武の新政の際には後醍醐天皇を諫めるも受け入れられず、洛北岩倉で不二大徳に就いて得度。
20年間の隠遁の後、妙心寺の関山慧玄に参禅して嗣法、妙心寺2世となる。
豫修:
前もって行う法要。前倒しで行う法要。
紀綱寮:
道場の修行の規矩を監督する役割。
接欵:
応接、接待。
令法久住:
「法をして久しく住せしめん」。
明治11年戊寅の歳の春3月、自分は西京の花園正法山妙心寺の修行道場金毛窟で、本光軒越渓守謙老師の指導を受けている時に、恵林寺に招かれた。
無吼笛庵主人である私が付け加えよう、この当時、妙心寺本山では開山第2世の円鑑国師授翁宗弼禅師の500年忌の予修中で、本光軒老師の指導の下には2000人に余る修行僧が参集していた。私はこの時に紀綱寮の役を務めていて来客の応接をしていたのであるが、そんな折にこの報せを受けたのだ。固辞して応じないでいたところ越渓老師は、昔から誰もが仏法が行われ続ける為に受け入れてきたのだ、と私に諭された。だから、意を決して使命に応じることにしたのだ。
同月十二日、微笑塔の前に於いて垂語して曰く...
3月12日、授翁宗弼禅師の塔所である微笑塔の前で垂示式を行って唱えた...(略)
仝日、隣花院に賀筵を設く。来賓壱百餘員...
(注)
隣花院:妙心寺塔頭隣華院。慶長4年(1599)創建。開山は南化玄興(1538-1604)、開基は脇坂安治。
同じ日に本山塔頭隣華院に祝賀の宴が設けられ、来賓は100に余る人数であった...(略)
仝年四月、備之曹源に趨く。佛國興盛禪師喪す。
(注)
佛國興盛禪師:
儀山善来(1802-1878)。江戸後期-明治の臨済僧。
若狭出身。備前(岡山)曹源寺の太元孜元に嗣法。
京都妙心寺、和泉南宗寺の住持をへて曹源寺に帰る。
妙心寺・大徳寺両本山に歴住。慶応二年、仏国興盛禅師の号を賜わる。
明治11年4月、備前岡山の曹源寺に赴いた。佛國興盛禪師儀山善来老師が亡くなられた。
仝年五月、芒鞋鉄錫業風に任せ、惠林之途に登る。
明治11年5月、草鞋ばき、鉄の錫杖を手に、宿業の風に任せて惠林への途につく。
菴主曰ク、當時滔々天下ノ人士、尊皇攘夷、廃佛毀釋之言ヲ弄シ、文明ノ基源佛教ノ何物タルヲ知ラズ、妄ニ寺観ヲ毀チ、堂宇ヲ破却スルヲ以テ爽快トナス。殊ニ吾山ノ如キ峡國ノ壮観タルヲ弁ゼズ、山門ノ境致、古檜老杉ヲ伐採シ、不急ノ工事ヲ起シ、有名ノ風致ヲ破ル。而モ寺僧手ヲ拱シ、俗吏臂ヲ張ル。維新革命ノ餘弊、破壊主義又怖ルベシ
此ノ時吾山、伐木後ニシテ末幹残梢満地ニ狼藉シ、其ノ殺風景名邈スベカラズ。雛僧寺僕ハ木屑枝片ヲ運ビ竃下ノ急須ニ供ス。後来旧記ヲ繙クモノ誰カ遺憾ノ涙ナカラン。寺院ノ哀弊モ亦此ニ至テ極ルト云ツベシ
又、吾山ノ林泉ノ如キ(夢窓国師手蹟)草蔓リ石藏レ泉涸レ蛙棲ミ、荒廃人ノ管スル無ク、幽致何ノ處ニカ在ル。
聞説、寺内第一ノ壮観タル古色蒼然ノ古青銅製、佛殿前ノ燈篭壱對、一吼長夜ノ夢ヲ破ル巨鐘其他、侯伯ノ寄附ニ係ル金銀銅噐、蒔繪類、佛噐家具ヲ論ゼズ苟モ價値アルモノハ悉ク跡ヲ留メズ、唯空ク其名ヲ傳フルノミ。
庵主であるわたしが言おう、当時天下の人々は滔々と尊皇攘夷、廃仏毀釈という言を弄して、文明の基盤となる仏教の何たるかも知らず、妄りに寺の景観を損ない、伽藍を破壊して爽快だなどとしていた。特に、恵林寺が甲斐国の誇る壮観であることもわきまえず、山門の風情をなしていた檜や杉の老古木を伐採し、必用もない工事を行って有名な風致を台無しにした。しかも僧侶は手をこまねくばかりで役人が威張り散らしていた。維新革命の行き過ぎた弊害である破壊主義は、何と恐ろしいことか。
この時恵林寺は、伐採が終わった後で、残された幹や枝が辺り一面足の踏み場もなく乱雑に散らばり、その殺風景な有り様は名状のしようがなかった。寺の小僧や使用人たちは木屑や小枝を運んで竃にくべて日々の必要に使っていた。後世、この頃の記録を繙いて読むならば、なんと痛ましいことかと涙ぐまない者はいないであろう。寺院荒廃の哀しみもここに極まれり、と言うべきである。
又、夢窓国師その人が自ら手を入れられた恵林寺庭園の木立や泉水でさえも、雑草が蔓延って石は隠れ、泉は枯れて蛙が住み着き、荒れ果てて人の手入れもなく、幽玄だった趣も今はいずこという有り様である。
聞くところでは、仏殿の前にあって恵林寺第一の壮観を誇っていたとされる蒼然とした古色の青銅製燈篭一対、一吼すれば生まれてこの方の迷いの夢も覚めてしまうといわれた大鐘など、大名諸侯らの寄附による金銀銅器、蒔絵類、仏具であろうと家具であろうと値打ちのあるものは一切跡形もなく、唯虚しくその名前だけを今日に留めている。
仝年入山以来、鉢盂ヲ放下スレバ則チ箒箕第一、有縁ヲ化シ祖塔ヲ修覆ス。此コニ至テ成ル、乃チ三祖ノ槊像ヲ𦾔位ニ復ス
菴主曰ク、衲入山以来前祖師堂屋漏リ壁破ル。故ニ三祖ノ槊像、槣ヲ方𠀋ニ移ス。此ニ於テ萱ヲ刈リ屋ヲ葺シ、搬圡拽石草芟リ路通ジ、初テ祖塔ヲ拝スル事ヲ得タリ
明治11年入山以来、托鉢を取りやめて箒と箕を第一にし、縁有る者を接化して祖師の塔を修覆した。この結果、夢窓、快川、末宗三祖の木像を元の場所に戻すことができた。
菴主である私が言おう、自分の入山以前には祖師の堂屋は雨漏りして壁も壊れていた。それゆえ夢窓・快川・末宗の三人の祖師の木像の居場所を方丈に移していたのである。それから伸びていた萱を刈り、屋根を葺き、土を運び石を曳き、草を刈り路を通し、初めて祖師の塔を拝することができるようになったのである。
仝年十月、住山披露。法筵ヲ開キ亨ル。緇素賀賓八百餘員。三日之間滹陀録ヲ講ジ、以テ法施ニ充ツ。甲斐田立道ヲ侍者ト爲ス。
庵主曰ク、維新ノ際、先師圓應後董ヲ挙クルコト数輩、本山公選地方特撰ト云モ多クハ是レ奸僧射利、要スルニ唯住山ノ名アリテ住法ノ心ナシ。此ノ積弊ヤ吾山ヲシテ荒廃タラシム、噫。
(注)
先師圓應:
圓應契梁(1818-1890)。恵林寺第51世(中興16世)。
緇素:
出家者と在家者。緇は出家者の衣の色である黒色、
素は在家者の衣の色である白色を指す。
滹陀録:
『臨済録』。
明治11年10月、住山披露の法要を無事に執り行い、出家・在家の来賓合わせて800人余りであった。3日間にわたって『臨済録』の講座を行い、仏法による施しとした。甲斐の田立道を侍者とした。
庵主である私が言おう、明治維新の折に、先住職円応老師は後継住職として数名の人物を立てた。本山からの公選、地方からの特別推薦とはいうものの、その多くは邪な僧であり欲得ばかり。要するにただ名刹住職の名声目当てであって仏法を護るためという心がなかった。こうしたことが積み重なって恵林寺は荒廃してしまったのである、嗚呼、何たることか。
言葉の端々から笛川老師の篤い護法の思いが迸り出ているようです。
文中、「祖師堂」とあるのは現在本堂正面に移築されてある開山堂『真空院』のことです。夢窓疎石を招いて自身の別邸を提供し、恵林寺を開創させた開基、牧ノ荘の守護二階堂貞藤の戒名にちなんで『真空院』と呼ばれています。この建物は、当時は現在の場所から北西、200メートルほどに位置していました。明治38年の火災を免れ、昭和40年代に、当時の住職、三光亭加藤会元老師によって開山堂兼佛殿として現在の場所に移築されました。夢窓国師、快川国師、末宗禅師の木像は今もその中に祀られています(現在は、夢窓国師命日の毎月30日のみ、開扉)。