2024年08月01日
【終了いたしました】8月1日から、特別朱印『火裡に清泉を酌む』をお分けいたします...
恵林寺八月葉月の特別朱印は、禅語『火裡に清泉を酌む』朱印です。
この語は、もともとは宋代に編まれ、元代にかけて編集が重ねられた『禅宗頌古聯珠集』によって知られるものとなったようです。
もとの句は対句になっており、
雨中に杲日を看(雨中看杲日)
火裏に清泉を酌む(火裏酌清泉)
というものです。
雨がザアザアと降る、そのただ中に耀く太陽を観、燃え盛る炎の中から清らかな水を汲み出す...
一見、矛盾したように見える言葉です。
「雨中に杲日を看る」...
「狐の嫁入り」と呼ばれる気象現象があります。
「お天気雨」と呼ばれるように、雨は降っているけれど、太陽の姿が見えるような状態です。
しかしこの語は、そんなことを言うのではありません。
それでは、どういうことを言おうとしているのでしょうか?
雨が降っている時には、わたしたちは空をおおう雲と、降り注ぐ雨にしか目が行きません。
だから、雨降りの時には空には太陽は無い、と考えます。
しかし、雨雲におおわれてわたしたちには見えないけれど、雨雲の遙か彼方、大空にはちゃんと太陽が輝いてくれています。
わたしたちはしばしば、目先の物事に目を奪われて、ものごとを表面だけのことで受け取ってしまいます。
ものごとの真実を、わたしたちはちゃんと見抜くことができているでしょうか?
それでは、「火裏に清泉を酌む」...はどうでしょうか?
炎の中から冷たい水を汲み出すことはできません。
しかし、蒸し暑い炎天下の中、涼しい風が一陣吹き抜ける時、わたしたちは清々しい涼しさを感じることができます。
何気ない挨拶の中で交わされる笑顔、思いやりのある一言や行動、気が付いてみれば、炎天下のもとでも、清々しく爽やかなことはいくらでもあるのです。
夏の真っ盛り、照りつける太陽を無くすことはできません。それどころか、この夏の照りつける太陽は確かに蒸し暑いけれど、この太陽の働きがなくなってしまったら、この大地の上に生きる生命はひとたまりもありません。
だから、わたしたちは誰もがこの照りつける太陽の光の下で生きていくほかはありませんし、そもそも、わたしたちにとっては、時に不便であったり不快であったりするものの、その恵みの上で初めて生命をまっとうすることが出来るものなのです。だから、大切なことは、この暑さの中で、どう、清々しい一瞬を感じることができるのか、そして、それ以上に、どうすれば、自分がたとえ一瞬でも良いから、清らかな清々しい行動をすることができるかどうかなのです。
火裡に清泉を酌む...
清らかな涼しさは、温度の問題だけではありません。
人の言動は、時に新鮮で清々しく爽やかです。
蒸し暑い中でこそ、身近にいる素敵な人の一挙一動に、清涼な清々しさを看て取る感覚の鋭さ、そして周りの人たちに新鮮な清々しさを感じさせるような、爽やかな立ち居振る舞いを身につけたいものです。
恵林寺には、夢窓国師の手になる見事な庭園があります。
この蒸し暑いさなかにも、清々しい瀧の音と清らかな水の流れが、青々と茂る樹木の葉が、わたしたちに一服の清涼を与えてくれます。
お参りにお越しの皆様に、七百年近い歴史を経て、今日に伝わる清泉をお持ち帰りいただきたく、この御朱印を謹製いたしました。
限定一〇〇部、御希望の方は、恵林寺拝観受け付けにお声掛けください。
恵林寺 山主 白
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