快川国師

Kaisenkokushi

「心頭滅却すれば、火も自ずから涼し」の言葉で知られる、快川国師(快川紹喜:かいせん じょうき、1502年:文亀2年~1582年:天正10年)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての臨済宗妙心寺派の名僧です。

 

出身は美濃、いまでいう岐阜県。若い頃から俊才の誉れ高く、岐阜城(稲葉城)をいただく金華山を見上げる崇福寺で修行を重ね、師である仁岫宗寿(じんしゅうそうじゅ)の法を嗣いで、南泉寺住職に、続いて京都花園の妙心寺本山に入寺。武田信玄の招きにより恵林寺に入り、その後一度は美濃に帰って崇福寺の住職を務めるものの、永禄七年(1564年)には、信玄の度々にわたる強い懇願に答える形で、再び恵林寺の住職に就任しました。このとき、齢63歳。

 

快川国師のこの恵林寺再住にあたって、信玄は寺領を加増して迎え、恵林寺を自らの廟所と定めました。以後、都を目指しての征西の途中における信玄の早すぎる死(1571年:天正元年)に至るまで、快川国師と信玄とは深い信頼と友情に結ばれた親密な関係にありました。

 

信玄の死後、国師は引き続き嫡子武田勝頼の師となります。そして、信玄の遺言通り3年間の秘喪の後、天正4年(1576年)に恵林寺で盛大に営まれた安骨葬儀において、国師は大導師を務めています(天正玄公仏事法語より)。

 

天正10年(1582年)、武運つたなく、最後の当主勝頼と共に甲斐武田家が壮絶な滅亡を遂げたのち、山梨に侵入してきた織田信長の軍勢は恵林寺を取り囲み、国師以下、兵火を逃れて恵林寺に身を寄せていた老若上下、僧俗を問わず百名近く、一説によれば120名ほどが山門の楼閣上に押し込められ、放たれた火によって焼き殺されました。

 

安禅不必須山水(安禅は必ずしも山水をもちいず)

滅却心頭火自涼(心頭を滅却すれば 火も自ずから涼し)

 

という言葉は、炎に包まれて落命するこの最後の瞬間に、国師が唱えたものだといわれています。かつて、国師がまだ岐阜の崇福寺の住職をしておられた頃、岐阜の太守であった斉藤義龍と全面対決しなければならない事態が持ち上がりました。「伝燈寺問題(別伝騒動:永禄3年 1560)」とよばれる事件です。このとき、国師は美濃の太守である義龍を相手に一歩も退くことなく「義龍は一国の主、衲僧(のうそう)は三界の師なり。三界の広きを以て、あに一国の狭きに換えんや」と言ったと伝えられています。

 

美濃の太守といえども、しょせんはただ一国を治める者に過ぎません。それに対して、僧侶というのは世界全体の、宇宙全体に連なる真の道を伝えるべき師匠なのだ。その広大な真理の世界を、ちっぽけな領土などと引き替えることなどできようか・・・そんな気概と共に、国師の人となりの剛毅さが伝わってくるエピソードです。

 

国師は、その声望が京都にまで轟き、信長による侵攻の少し前、天正10年の1月に、正親町天皇(おおぎまちてんのう)から「大通智勝国師」という国師号を賜っています。そんな国師の身は、最期を共にした大勢の人々の肉体と共に、儚く炎の中に消え去りました。

 

今日、恵林寺では、かつて荘厳な山門の楼閣が聳えていたであろうその場所に建つ現在の三門脇に、ささやかな供養塔がひっそりと佇んでいます。そして、あまり人の注意を集めることもないこの供養塔だけが、快川国師を偲ぶ唯一の遺構となっているのです。この供養塔に刻まれる「天正亡諸大和尚諸位禅師諸喝食各々霊位」という刻字が、かつての恵林寺の悲劇と、従容として過酷な運命を引き受けた国師と弟子たち、大勢の僧侶たちの無言の願いを今に伝えているのです。